「われわれが直接知覚する事象は、絶えず膨らんでいって空虚を知らない充実である。事象には持続があるように拡がりもある。しかしその具体的な拡がりは悟性が建設するための地面と考えている無限なかつ無限に分割される空間ではない。」「事物がその空間のなかにあるのではなく空間が事物のなかにあるのである。」「そこで不在とか虚無とか無とかいう観念は、事象的にせよ生起的にせよ除去の観念と結びついて離れないもので、除去の観念そのものが代置の観念の一面にすぎない。」

つまり事象の前に無などなく、従って可能性は事象に先立たないと言いたいらしい。ベルグソンは。
「芸術家が作品を作る際には、事象的なものと同時に可能的なものを創造すると見るのを自明だというようになる」
分かる、分かるわ〜、ベルちゃん。無音空間を白紙の五線譜だと捉え、その枠の中に音を配置していくのではない。音楽が始まったら、音があってもなくても、その場は充実であり、無音の上に音があるのではなく、無音は音に含まれているのであり、無音は音の除去であるから、無ではないのであり、その場は常に充実であり除去は代置であるから、音の除去されたその場には何ものかが滑り込んできているのだ。
うん。無意味。こんなことは考えるのはブラッドメルドーとかアビシャイコーエンくらいだろう。エルビンがあの顔でこんなこと考えてるはずない。


達人になればなるほど、多くの「可能的なもののあいだにおける選択」肢がひろく、適切に選択する、というのは誤りである。可能性は選択とは関係ない。可能的なものを正しい位置に置けば「限界のない広野が自由に向かって拡げられる」ようなものである。
「予見のできない新しさが現実に湧き出てくることを認め」、「現在によって過去を、結果によって原因を絶えず作りなおしていく」のである。
それが自分の音、周りの音をよく聴く意義であるわけだったりそうでもない気もしつつ。
その作業において「事象は絶えずよみがえる新しさ、事物の動く独創性をわれわれに示してくれ」、われわれは「起源にある創造の大きな仕事、われわれの眼の前につづけられていく仕事にわれわれも参加して、自分自身の創造者となるように」感じられると。
うん。DRUGADIDDLEを練習した方がよっぽど有益だな。
よーし☆発泡酒3本目いっちゃうぞ?